昭和43年11月01日 月例祭



 此方の道は、祈念祈祷で助かるのではない。話を聞いて助かる道だと。祈念祈祷で助かるのではない。話を聞いて助かる。只今、御祈念前の前講を末永さんがおかげを頂いておりましたが。信心は、拝む事だと。というその、自身が今拝む事に有難いものを感じておる、神様と交流しておる喜びをお話にいたしておりましたですね。それと反対の様ですけれども、けっしてそうじゃないのです。
  話を聞いたら拝まなければおられないのです。話を聞いて分かって来たら実は拝まなければおられんのである。それも神様だけではありません。もう森羅万象自分の身の周囲は言うに及ばず、我と我が心までも拝みとうなって来る。それが信心だ。だからそこの為に、まず話を聞かなければいけません。同時に私は思うんですけれどもね、話を聞いて助かる道なのですから話をすればもっと助かるのじゃないかと私は思う。
 話を聞いて助かる。私どもが話を聞いて助かる。その助かる様な話をさして頂いたらもっと助かるという事。所が中々話というものは中々出来ません。私共でもはあ、今夜はひとつどげな話をさして貰おうかと思うたら、もう絶対お話は出来ません。もうその証拠に私は何と言うですかね、いろんな御挨拶なんか全然出来ない程にお話は下手なんです。自分でも不思議でたまらん。
  もう、とちってばっかりである。簡単な御挨拶、御大祭ですね、ご直会を私が、教会長が挨拶をしなければならんもう何時もしどろもどろ。自分ながらおかしい。ですからどうぞ皆さん何も御座いませんけれども、一献上がって下さいと、言うごたる風な付き合いごたる事なってしまう。他所の先生方、其処ん所ぴしゃっとなさるですね。それを私は出来ん程にお話が下手なんです。
 出来ないんですけれども信心の話。自分が助かっていっておる話。自分がおかげを受けておる話は別です。そこで私は思うんです。今ここで御霊様の御祈念が八時に仕えられる。ね。 そこへ十五分か二十分かの時間が御祭りまで御座いますから、その時間を誰かが、まあ月次祭たんびにお話をさして頂いとります。ここで修行しておる方達、又は御信者さんの中から、まあお話をまあ頂く訳です。
 それがその前からまあ言うとけばまだいいですけども、その何かに指突っ込む様に「今日はあなたお話して下さい」と、こう言うもんですから、中々ちょっと出来ない。今日も「誰が今日はお話をする様になってるんですか」って言ったら「今日は正義先生にお願いしようと思います」言うたっちゃ幾ら内容を持っておってもですよね、それを例えば表現すると聞いて貰うて人が分かる様に。
 所謂人が助かりなさる様な、そのお話になっていく事は中々難しいんですね。そこで私はね何時も、何時神様から、どこに難儀な氏子に出会うやら分からない。どこに助かりを頂かなければならない人に合うか分からんのですから、何時でもお話の出来る稽古が、もう絶えずなされておかなければならないという事です。いう事は絶えず心を神様に向けておらなければならないという事です。
 そこにもお話の材料があり、ここにもお話の材料がある。思わして頂きよる事を、誰かにお話しなければおられないように素晴らしい、例えば事が心の中に続けられて来る。不思議ですよ。皆さんそれを体験して御覧なさい。今度の月次祭には自分がひとつ、例えば指名されたらお話さして貰おう。もう話が無かったなら手を挙げてでも十分間ばかりでもお話さして下さいと言う様にですね自分の心の中に。
 そうした信心のお話がまとまって来るです。ですから一人一人がですね今日指名されるかもしれん。 言う様な気持ちでね1つあの稽古をして御覧なさい「今日お話してを下さい」と言われたらすぐ今心の中に思うて心の今、心の中でお話をしている事をそのまま言葉に出せば良いのです。私は話を聞いて助かる道と仰るのですから話をさして貰う。話をさせて頂く事によって、人が助かり自分のより助かりと私思うんです。
 話を聞いて助かる道であると同時に、話をさして頂いてね、神様への御礼と思うて人に伝えていくのが神への御礼である。しかもそれが神になるのぞとまで言うてある。教祖は自分がおかげを受けた事を人に伝えていく、実意丁寧に。それが神様への御礼だと仰るのですから、何時でもどこででもお話が出来る様にです、心の中にね。それかと今言う様に、ならどげな風に話そうかばっかりじゃいかんとです。
 話す材料が心の中に、すぅっとこうキャッチされて行かなければいけない。素晴らしい事だな有難い事だな、自然の風物を見ておってもそれが話になるね。俳句を作る人ならばそれがそのまま俳句になる。歌を作る人ならば歌になり、絵を書く人ならばそのまま絵になる様に。私共が見た事聞いた所それがそのまま話になる様なおかげを頂く稽古をなさらなければいけない。それには絶えず心を神様に向けとかなければならない。
 そこにです何時もが祈りである。いわゆる末永さんが言っております何時も祈らなければおられんのであり、拝まなければおられないという信心も又そこから生まれて来るのです。拝む事と生活。拝む事とお話をする事聞く事は継ながっておるお話を頂いて心が開ける。有難いなあと思うたら拝まなきゃいけん。はぁそうどころじゃないそれを私に頂かせて下さい、私共にさせて下さいという願いが、私は必要だとこう思う。
  これは私はもう絶対お道の信心はですね、もう何時どこででもお話を出来る様なね、態勢を整えておくという位に、神様に心を向けておく事だと思うのです。それには私は本当にいわば、思い付だと思うんですね。こんばん皆さんお話を頂いて帰られて、ね、今日のお話を聞いて覚えて帰らる事も良いけれども。それをお話を頂きながらですね、こういうお話じゃったじゃなくて、今日のお話を頂きながらかく感じたと。
 ですからそれは素晴らしい話になるんです。今日例えば原さんがお話になりましたです。おかげを受けた事をただ話すのじゃいかんです。おかげの羅列なら、おかげ話じゃ詰らんと言われるのはその事なんです。こういうおかげを頂いて、ね、娘はこう感じたであろう、私はこう頂いたというもんで無から無ればいかんです。ですから、そのおかげ話というのは、もう実に簡単なものでいいのです。
 せっぱ詰まって、こうこうで、こういう素晴らしいおかげを頂いた。この事によってこう私は分からせて頂いたんだ、この事からこう改まらして頂いたんだという信心がね、私は人の心を掴んで離さないと思う。先日善導寺の式年祭の前の日でした、御用に行っとりましたら、ちょうど鹿児島が親子三人で着かれました。もう来る来るその御用を頂いておられる。私は北野の先生と鹿児島の先生と私三人です。
 最近、合楽の御ヒレイを何処行っても聞くと。どこ行っても全国どこ行っても、なら「九州の合楽っていう教会があるそうですね」。もう大変なもう話に話がやっぱこう花が咲く訳ですね。 もう毎日その、お参りでごった返しておる様に、そのあの聞いておられる。そんなこっちゃありません。けどやっぱひとつの御ヒレイだとこう思う。先日から、あの、山口の田布施という教会から団体参拝してきました。
 九州巡拝。言わば甘木と合楽にお参り。わざわざ泊まりがけで、原鶴に宿をとってお参り。それからそういう何日か前には、熊本の木山と言う所から青年会の方達が、いわば二十人あまりですか。ここの教会に参拝してきました。 だからその行徳先生がどこ行ってもその、合楽の話を聞くというのです。しかもあれが、私の出里の教会の出社であるという事ですから、ほんとに肩身が広いとこう言われる。
 嬉しいと。そしてあのおたくであの御理解集というのが出来よったでしょうが。あれが今もう膨大なものになっとるでしょうねと。はぁあぁいうテープとお話が全部あの、記録されていきよりますから、もう大した事で御座います。そうでしょうと言う様な話からですねこういう事を言われるんです。 教祖、宗祖的な人のお話はね、それが話が上手とか下手とかというのじゃなくてね、人の心を掴んで離さないという事。
 「大坪さんああた達もやっぱり、そういうひとつの頼型だと、そういう方だと」言う様な事を言われるんです。だから北野の先生も「そうですもんね」ち言うて。話が上手とか下手とか素晴らしい事じゃない。人の心を掴んで離さない事を言われる、教祖宗祖的な人は。甘木においても然りであった。久留米の石橋先生でもそうであった。「大坪先生ああたもやっぱ、一つのそういう方の様だ」とこう言われる訳なんですね。
 いや私共なそんな大徳な先生に、そのまあ肩を並べる事は出来はしません。又実際に信心がそんなに出来とる訳でもないのですけれども、私の場合どこまでも矢張り、そういう偉い先生方を先輩に頂いておるという事がおかげを受けておる元である。ね。そしたら先日話させ。山口の田布施から丁度その前の日でしたから、昨日はこうして山口の田布施から参ってきました。
 はあ田布施がまた大変な御ヒレイが輝いている所。先生がですねその教会長先生が踊る宗教に乗り換えらっしゃったんだと。それけん暫く教会が立ち行かん事なった。そこでそこの総代さんの、ある熱心な人が一生懸命に教会を守って行かれた。所がその総代さんのお取次ぎでどんどんどんどん人が助かる様になった。もうそれこそ隣近所の教会から、もうその排斥される位に御ヒレイが立って来たと。
 それが今の田布施の教会なんです。その田布施の教会から参って来た。「ほぉ、田布施から参って来ましたか」。若先生を先頭に、参って来たんですけれども。ここへ来て一番初めに聞いた事は、どういう事かというとですね。「どういう訳に、御結界がここは左と右で御座いますか。」とこう言われる。次には、霊神様にね、御挨拶になって、ちょうど御祈念の時か何かじゃなかったでしょうかね。
 「御届け帳が、霊神様の前にお供えしてあるのはどういう訳ですか。」右と左にあるのは、三代金光様から左と。又私がこちらの耳が全然聞こえませんから、こう座ったら出来んからそうでしょうと。 御届け帳はどういう事かというと、私はほんとに自分の力とか、自分の信心で人が助かっとるとは思いません。もう一様はね、先代、私のいわば善導寺なら善導寺の初代なら初代の御霊様に御届けをさして貰うて。
 御取次ぎを願わなければ安心がいかん。おかげを受けておるのもそういう私共は、偉い先生方を先輩に頂いておるおかげですから。私は、御霊様の前に御届け帳をお供えしなければおられんのだと。という事を話しましたと言うて話しましたら、もうその北野の先生も鹿児島の先生も、もう誰でんねそんくらいの事は言いもし、分かってもおるばってん実感として御霊様のおかげで助かっているんだ。
 御霊様の御取次ぎを頂かなければ、自分の力じゃ助からんというその、所が中々出来んと言うておられます。ちょっと話が横道にそれましたけれども、もう大坪さんあなたが言われる事をです、矢張り教祖、宗祖的な事だ。人の心を掴んで離さない。それはどういう事である、それは何時も何処ででもね、お話が出来れる態勢というものが何時もでけておる。何時も心が神様に向こうておる。
 話を聞いて助かるだけではなくて、自分自身が話をしておるから私が助かっておる。助かっておる者の心の中から浮かび上がって来るもの、その口からほとばしって出て来るもの、だから私は人が助かるんだ有り難いんだと。書き留めてもおかなければならない、やはりテープに残しておかなければならないと言う様な、私は事になるんだと私は思う。ですから、話を聞いて助かるという事は、そのまま話をすればなお助かる。
 それは教祖がおっしゃっておられるね、おかげを受けた事を実意丁寧に人へ伝えていくのが神への御礼である、同時に、それが神になるのぞとこう仰る。してみると皆さん、もう日々がですねお話の材料をひとつ、もう一生懸命自分の周辺から探さないかんです。という事は、何時も心を神様に向けて見るのであり、何時も心を神様に向けて聞くのである。 子供の歌う童歌の中からでも、神が話をして聞かす。
 赤子の泣き声の中からでも、と四神様は仰っておられる。どこに私に神様が教えて下さる、いわば言葉が誰を通して送って来るやら分からんのですから、心を神様に向けとかなければならない。その向けておくという事、その事自体がね、私の心を嫌が上にも有難いものにしていく事になるのです。ですからもう特に合楽に向こうて来る間はですね。こげな風にね、こげな話をね。
 こういう心の中にまとまった話を、誰かに聞いて貰いたいと言う位に、自分の心の中でね。自転車に乗りながらでも、あんまり本当一生懸命考えち来てからしよっと、また向こうから自動車来よっとでも覚えんごたっといかんけんで、そこんにきはね適当にその、自分の心の中にそのお話を頂いて、自分の心の中に頂かせる様な気持ち。しかも是がそのまま、今誰かに聞いて貰うたらこの人が助かるだろう。
 誰かにしなければおられない。そこに信心話というのは花が咲く訳です。ですからもう何時でも何処ででもです、お広前で「さあ誰々さんお話して下さい」と言われた時に「はい」と言うて立てれる。もし立てないなら横からでも「はい」と言うて手を上げれる位のものがですね、私は欲しい。それがね、それがおかげを頂いていく事だと今日皆さんに聞いて頂いた。それがおかげの受け物になる。
 それが神になるのぞ。話を聞くだけではない。我が心からも練り出していく。練り出した話を人に聞いて貰う。今日は、誰だったでしょうか、末永さんですかねえ。仕事が仕事を教える様に、信心が信心を導いてくれる。そして矢張り稽古です。あんたおかげ頂いた話をしなさいというて、そのそのおかげを受けた話だけをする。それだからそれを力にないものになり、その所謂単なるおかげ話になってしまう。
 こういうおかげを頂く後先。そういうおかげを頂いてそれによって私がこう変わったこう感じたと、次の新しいものになからなければ、人の心に伝わっていかないと私は思うのですよ。夕べ十月の、お終いでしたから、カレンダーが全部十一月に替わった。茶の間のカレンダーも、「せんがい」さん描く所の有名なカレンダー。出光さん所のカレンダーが掛かってます。それで妙な絵が書いちゃるです。
 ほんとに妙な絵が書いちゃるです。その讃にこう書いてあるんです。達磨の化け物を見てくんないしょ。と書いてあります。達磨の化け物を見てくんないしょと。これは、昔の博多の辺りの言葉ですね、この辺の言葉でもある。化け物、達磨の化け物。ほんとに、いうならばちょうど達磨の幽霊のごたっとが書いちゃるとです。 達磨の幽霊ごたる顔しとっとじゃなかろうかち言った様な感じで書いちゃる。
 そして達磨の化け物を見てくんないしょと。私がその意味がどういうものかは知らない。確かに下に細かく説明も書いてあるけれども、是は大変難しい事が書いてある様である。私は目が薄いから見なかった。それは全然私の思うておる事とは違うけれども「せんがい」さんは、矢張り禅のお寺の磐ですから禅法師さんですから、禅のお坊さんというのはもう座って良くて、座りの良いのが禅法師に良いのだと言われております。
 その禅坊さんがですね、達磨がこうやって立っとるこうやって幽霊のごと。そういう絵を書いちゃる。達磨が立っとる。ですから、私は達磨の化け物だと云う事になる。これが、例えば金光様の先生がですね、もう何処に御用じゃから、あちらに行く。もう歩き回る事をですね、御用だと言うて先生が立ち歩く様になったら、もうその教会に御ヒレイは立たん。それは、金光様の化け物だからです。
 もう金光様の、例えば先生ばっかりは、この畳半畳に座らせて頂くという事がです、初めの間は辛うて辛うて、よう泣きましたという事でも御座いましょうけれども、それが段々有難う成って来る、という修行がなさらなければ、金光様のお手代わりは出来ません。所謂本当なものにならなければならないと云う事である。ですから、私共の信心がです、本当なものであるかないかと云う事は、ね、
 どう云う事かというと、何時でも何処でも、人の心を掴んで離さない様な事がです、話として何時でも何処ででも出来ると。有難いですね。これでもいいんです。心の中に真実有難いなら、相手にほんな事ですねち、訳分からんな、それが向こうにそうなって来るんです。有難いですねと。有り難いですと、今度有難いと思うておる事を話せば、ほんとにそうですねと言うて相手もおかげ頂くんです。有難くない者がです、有難いですねと言うたって相手に響いていかんのです。
 その為に、私共がです、絶えず自分の心を神様に向けて行くひとつの方法という意味合いにおいてでもです、何時でも何処でお話をしなければならないか分からない。教会に参って来たら、何時指名をされてお話をしなければならんか分からんから、本なっと読んでから勉強しとこうてんなんてんちゅう事じゃなくて、心を自分が神様の方へ向けておくとです、自分の周囲の中には、お話の材料ばっかりだと。
 お花を生ける人が、山に登ったらあれも是もが、お花の材料になるものばっかりである様に、私共が話をさして頂くという事になれば、信心での話はもう、話にならない事はないのである。合楽の前身である椛目の十七・八年前の自分の事を御承知の方はそうでしたですね。もう私のおる所、もう一日中ずぅっと話じゃったとですよ。しかも人の心を掴んで離さない様な話ばかりですから、久保山先生が是はとてもこのまま放っておったら勿体無いというて始めたのが、あの速記です。
 ここの御理解集の始まりです。もうそれこそ、繰り返し繰り返しじゃなくて、もうずぅっと替わった話。火鉢の前に座っておると火鉢の中から御理解が出て来る。御飯食べよると、お箸の中から茶碗の中からお話が出て来る。お参りして来るとその人の着とる着物の柄から話が出て来る。私、今でもそれ思い出した事がある、北野の教会行ったら、中村さんが「先生、私は。」
 その頃は先生ちゃ言わん大坪さん「大坪さん、私この頃悩みがある」ち、「どげな悩みですか」「はあ、それがああたもう信心の悩みで御座います」、「どういう信心の悩みね」ち言うた所が。「大体私は宮の陣の教会に御神縁を頂いた。所が北野教会が近くだもんですから北野教会にお参りすると、宮の陣の方からえらい文句がでて来る。そん為先生と先生との間まで、その大変面白くない事になって来る。
 もう私これ悩みぬいとる」と、こういう訳なんです「どういう信心させて頂いたらならよかろうか」丁度夏の事でしたから、今もまだあの浴衣持っておられますが、その波に千鳥の模様の浴衣を着ちゃった。「そら中村さんそれですよ」。と言うてその、波と千鳥にという事についての御理解を頂いた事がある。と言う様にですね、もうほんとにお話がもうずぅっとねお話。
 私は電車なんか乗りますともう、電車の中でもう御理解のずぅっと頂きっぱなし。誰にかされん事がもう惜しいごとある。道を歩きよってもそうです。ある時神様がね、御心眼にそういう心の状態の時にです、心の状態の時に、アスファルトの上にねアイスキャンディーを一杯投げ捨ててある所を頂いた。それでもう夏のね、あのアスファルトの上の焼けたような中に、上にこうやってアイスキャンディーが投げ出してあるもんですから、それが瞬く間に溶けていく所を頂いた。
 して神様がね「惜しいことじゃ」と「声が出ぬ話を、もうそれこそ喉が渇いて渇いて堪えんごたる者がどの位あるやら分からんのに、これを一本づつ与えたら、皆が潤うであろうけれども、折角こうやって頂きよるけれども、お前の周囲に人が集まって来ない惜しい事じゃ」と言うて下さった様な事があったという程にですね、お話というものはもう限りなしに頂けるものなんです。
  だから自分自身だけは有り難い。だから自分自身でいただくとにはです、あまりにもたくさんですから、それはキャンディーが、ああその炎天の、道路の上に溶けて行く様に、もったいないごとある。ですから、皆さんどうぞひとつその、話を聞いて助かる道というのは、話を聞いて助からなければなりません。同時に話をして聞いて助かると云う事は、もっと有り難い事。
 それにはね、今日の御理解がこうじゃったという話もいいけれども、今日の御理解を頂いて、私はこう感じたと云う物ならもう絶対おかげ頂く。私は今日の御理解を頂いてから、こう私は改まろうと思うた。そしたら、こういうおかげを頂いたというおかげ話なら素晴らしい。それが神様への御礼にもなる。しかもそれは神になるのぞとまで教えて下さるのですから、何時も何処ででもお話の出来る様にです。
 心を神様に向けて行く様な稽古をなさったらどうでしょうか。月の初めに、話を聞いて助かる道。同時に話をね、させて頂いて助かる。話をさせて頂く事によって自分の心が神に向こうていくという信心。何時でも何処ででもお話が出来る様な、状態を頂いたら有難い。人に聞いて貰わなければおられないそういう信心。まあ過程においてはですいや私は是は出来んまた金光様のお話ば聞かにゃんと。
 いう位にひとつ話をしていいと私は思うんです。もう私共もまあ信者時代にはですね、もう私が参りますと「ほら金光さんが来らっしゃった」ちちゅうてから言よった。で親父は逃げ出すもう聞かにゃんと思うてから。それけん家内が「こらこら、金光様が来らしゃったが」ち言うてから家内がおらぶ様な人があったんです。もう私に会うた人は信者にならにゃいかん。
 私と会うた人は私の話を聞かにゃいかん、という位にその、熱烈なもの。そらもうほんとに、バスの中じゃろうが電車の中であろうがですね、お話をさせて頂いた。ご本部の帰りなんかにゃ秋永先生、なら随分あれでしたでしょう。さあここで立ってからしなさい。ほらもう御本部参拝の、あの飲んだり食べたりして楽しんだ所へ立ち上がって、しかも上に立ち上がってから。
 「今から信心の話をします」ちから秋永先生が立ってからお話をし始めます。もうそれがですね、そうさして貰わなければ居られない位なものを頂かして貰う所からです、私は拝まなければおられないもの。ね。 それが今日、末永さんが申しました、話を聞くだけではない、さして貰わなければいけない。それで助かっていくのだと。そこにはもう自ずとです。是ば又拝まなければおられない。
 心を神様に向かいきりに向かっておるのですから、暇さえあれば拝む心が生まれてくる。そういう心で拝むから、大体眠うして堪えんはずなのが神様と通う。ですから御神前に額ずかせて頂いたら、今迄は御祈念が眠りの御用の様に思うておった末永さんが、この頃は眠らんで済む様なおかげを頂いたと云う風に発表しております。そういうおかげを頂きたいと思います。
   どうぞ。